【人生100年時代】前半戦を振り返る少し長めのプロフィール

30年後、2050年の平均寿命は90歳!

今年還暦以下の人は、このままいけば生きているでしょうし、科学の進化で、案外ピンピンしてるかもしれません。

定年退職まで働いたとしても、その後約30年も生きるんだったら、新しいことだって余裕でできる時代です。

ですから私は、

「もし今やりたいことがあるなら、やっておかないと損じゃない?」

と思って、行動に移しています。

この記事では、人生の折り返し地点を通過した私が、後半戦を強くたくましく生きるために前半戦を振り返りました。

これを読むと私のたどってきた人生がよくわかるはずですが、それだけでなくて、必ずあなたの気づきにもなるはずです。

最短距離を行くことだけが人生の充実ではないのに、遠回りをしたくない気持ちが強く、行動してから準備不足に気づいて、その結果、遠回りになってしまったり。

やりたいことがあるのにやらないまま過ごしていたり、昔は色々挑戦してたけど、最近、守りに入ってるなぁ…と感じるようになったり。

これは私の話ですが、もしあなたにも当てはまるなら、「迷わず動くのがいいよ!」ってことを伝えたくて、このプロフィールを書いています。

あらためまして、Letratica(レトラティカ)運営者のやすこと申します。

デザイナー歴約30年、グラフィックデザイナーとして社会人キャリアをスタートしました。

その後、主に企業のメディア発信の企画からディレクションを行い、2018年から個人としてメディア発信をはじめています。

私のこれまでの経歴を、ざっくり紹介すると…

  • 女性でも一生稼げる仕事をしようと考えインテリアデザイナーを目指す
  • 苦労して入った美大だけどなんか違う…気がつけば卒業
  • 環境を変えたくてイタリアに渡るがバブル崩壊で日本に逆戻り
  • 日本のデザインの現場にデジタル化の波
  • できることを駆使してサバイバル生活&自分をバージョンアップ
  • 日本の企業に就職するもプライベートの確保ができない!働きすぎで壊れる
  • 心機一転、最先端を求めてITベンチャーへ
  • うまくいかないからもういいや!手放したら仕事が巡ってきて…独立しちゃった
  • カリグラフィーに出合って「自分だけの強み」に気づく
  • 発信してみてどんな風に生きてもそれは自分らしい生き方ってことに気づく

と、こうやって書き出してみると、さすがに長く生きてる(?)だけあり、数々の荒波を乗り越えてきました!

この記事が、なんとなく動けずに悩んでいる人の、飛び出すきっかけになると嬉しいです。

学生時代〜小さな世界の少ない情報で早々に進路を決める

私が仕事を決めるうえで大切に感じていたこと

私が小学校を卒業する直前、12歳の時に父が他界して、生活が一変しました。

当時の女性のほとんどは専業主婦が当たり前でしたが、女性でも一生稼いでいこうと考えるきっかけになりました。

一生、働けるような仕事を見つけなくちゃ。

きっと、人生で仕事に費やす時間は多いにちがいない。

だったら、できるだけ楽しめるようなことを仕事にしたいな。

私の職業選択の優先順位は、こうして決まりました。

デザインとの出会い

少し遡りますが、小学校4年生くらいの頃だったと思います。

父方の伯父が喫茶店の開業を前に、私の父にアドバイスを求めてしょっちゅう家を訪れていました。

週末には、開業前の店舗に私も一緒に連れて行ってもらったりしていました。

開業準備では、看板のデザインが上がってきたり、店舗の内装を決めるため、壁紙や床材のサンプル帳が届いたりしていて…そして、デザインという世界を知ったのです。

「デザインってどんな世界なんだろう?」

興味を持って、詳しく調べていくうちに、私はその世界にぐいぐい引き込まれて行きました。

進路変更のきっかけと偶然の重なりで

調べていくうちに、デザインの世界には資格のようなものもなく、なんとなく不安定な業界に感じられました。

そんな中で、私はインテリアデザインに関心を持つようになります。

国家資格(二級建築士)を取れば、なんとなくずっと仕事も続けられそう

建築家と結婚して、夫婦で独立して事務所を開く

自宅の近くに事務所を構えれば家事も仕事もできて一石二鳥

子育てしながらでも仕事を続けられる

しかも、好きなように住む環境をデザインできる

と、勝手に人生プランを練って、完璧だ!と妄想を膨らませたりして楽しんでいました。

父親を亡くした私にとって、インテリアの専門学校という選択肢は、大学進学よりはるかに現実的。

中学生の時には、すでに頭の中で進路を決めていました。

高校入学後には、どの専門学校が良いかと早々に下調べもして準備万端なはずだったのですが、心の奥底にしまってあった思いがうっかり開いてしまったのは、高校3年の進路指導の時でした。

担任の先生が、インテリアデザインの道に進むなら、大学の建築科はどうかと勧めくれたのですが、当時の建築科ってちょっとインテリアとは遠いイメージだし…

進路は決めてはいたものの、私にとって大学進学はちょっとした夢。

少し心が揺れていたところにたまたま、美大受験をする予定の同級生の男の子が、「インテリアなら美大のデザイン科というのがいいと思うよ!」と声をかけてきました。

さらに同じ頃、小学校時代の親友Nちゃんが、美大を目指しているという話まで耳に入ってきました。

たしかに、子供の頃から絵が好きだった彼女の影響で、私も中学時代に少し油絵を描いていたことがありました。

でも、特に絵が好きでも得意でもない私が、美大受験など、絶対ありえない!と思っていたはずなのに…

Nちゃんも美大を目指しているみたいだから、話を聞いてみたら?

母親がどこからか情報を入手してきて、結局、Nちゃんの通う美大受験専門の予備校に見学に行くことになったのです。

予備校時代〜アナザーワールドの存在を知って魅了される

美大受験でデッサンの魅力にハマる

予備校に通い始めたのは、高校3年の2学期だったと記憶してます。

美大を目指す人の多くは、子どもの頃から絵が大好き。

高校1年から予備校に通ってデッサンの腕を磨いているというのが当たり前でした。

だから、私が予備校に通い始める頃には、みんなめちゃめちゃ絵がうまかったのです。

私が通った予備校は、東京の自由が丘にありました。

小洒落た街で、在籍している子たちも皆センスがよくて華やかな進学校の子たちばかりでした。

私のまったく知らない世界でした。

その環境に圧倒される一方で、疑問に感じたことがありました。

それは、やや失礼な表現ですが、見た目が地味でパッとしない、勉強もあんまりできそうな子が、驚くように魅力的な絵を描いて評価されていたことです。

先入観のかたまりだった私の価値観が大きく崩壊しました。

  • どうしたらあんな絵が描けるんだろう?
  • 絵の評価や良し悪しってなんだろう?

それが、不思議でなりませんでした。

とにかくもっといい絵が描けるようになりたい!という一心で、私はデッサンにのめり込むようになりました。

ついに私は、母親に浪人を覚悟で受験させて欲しいと頼みこみ、美大受験を決めたのです。

合格したのに浪人生活を選んだ理由

一浪して受かったのは、M美大短期部GD(グラフィックデザイン)科でした。

美大受験はかなり人気があり、美大受験者のほとんどが受けるであろう芸大(国立東京芸大)のデザイン科の受験倍率は50倍超でした!!←今考えると意味不明な数字

当時、美大に入るためには、2浪3浪も当たり前といわれた時代でした。

自分が浪人生という日陰の身であることもすっかり忘れ、デッサンの魅力とともに美術の世界にすっかり取り憑かれた私は、とにかくいいデッサンを描けるようになりたくて無謀にも浪人生活を選びます。

今考えると、はっきり言ってアホですね!(って思うけど、それなりのメリットもありました)

その頃は、デッサンの実力もかなりついてきて、芸大に行きたい!と、強く思うようになっていました。

地方から芸大を目指して浪人する子たちが多く在籍する大手の予備校に籍を移し、制作中心の生活になりました。

デザイン科受験に必要な平面構成や、立体構成に加えて、受験科目で比重が高いと言われていた英語も勉強し、さらに週一回放課後に行われるクロッキー教室にも参加していました。

クロッキー教室は、ヌードのモデルさんを、短時間で木炭やチョークなどの芯の柔らかい画材を使って描いていくクラスで、通常の授業とは別に、チケットを購入して参加します。

形や動きを素早く捉える訓練をするのが目的で、参加者は油画科や彫刻科などのファインアート系の学生ばかりで、デザイン科と違う雰囲気も楽しみの一つでした。

努力の甲斐もあって、芸大の一次試験(鉛筆デッサン)は通過しました。

しかし、結果は惨敗でした。

芸大のデザイン科だけでなくもともと目指していたインテリア系を学べそうな学科にもことごとく落ちてしまい、最終的に、多摩美大のグラフィックデザイン(以降:GD)科に通うことになりました。

大学時代〜想像と現実のギャップ、求めていた世界はどこに?

念願の美大に入ってはみたものの…

気がつくと、自分の想いはインテリアデザイナーから、絵がうまくなりたいという風にすっかり変わっていました。

もっと美術の世界を追求したいと考えるようになっていた私は、大学の最初のデッサンのクラスで衝撃を受けました。

予備校よりもレベルが低い…

浪人生活の中で、デッサンで一番重要なことは観察力と教わっていた私にとって、デッサンとは、美術の世界で土台に当たるものと考えるようになっていました。

だから、美大に入るには、必ずある一定レベル以上のデッサンが描ける必要があると思って努力してきたのに、今までの苦労はいったい何だったの?と感じました。

しかも、ようやく入れたのは、デザイン科とはいえ、インテリアではなくグラフィックデザインです。

我に変えると、本来目指していたこととは全然違っていました。

学校やめたい…

との思いが脳裏をよぎったけど、さすがに浪人の末の進学で、親にそんなこと言い出せないし…

それでも、4年間の猶予期間は手に入れた訳だし、何浪もしても美大に入れない人も大勢いたのも事実。

そう自分に言い聞かせて、大学生活というある意味恵まれた時間と環境を活かそうと最初に考えたのが、アルバイト生活でした。

バイト三昧の日々

ちょうど世の中の景気は上々、後にバブル景気と呼ばれる時代でした。

教授や先輩からの紹介で代々引き継がれる、アルバイト情報誌にはないような、珍しいバイトに巡り合うことは容易でした。

さらに、社会は終身雇用の考え方が当たり前の時代でもあったので、社会に出る前にいろんな業界や職種を経験してみたいということも考えていました。

いろんなと言っても、デザイナーという専門職を目指していた私は、その周辺のバイトばかりを選んでいました。

大手広告代理店、テレビ局、出版社、大手電機メーカー、イベントや環境アートの企画立案とカンプ制作、ディスプレイ、アニメーションやテレビ番組の企画制作会社やデザイン事務所などでの制作アシスタントなどの経験をさせてもらいました。

デザインの現場の多くは、マスコミや広告、大規模イベントや商業施設などに関わるものがほとんどだったのです。

ロサンゼルスのアートセンターへ

米国ロサンゼルスに、大学と提携しているデザイン専門校「Art Center College of Design」がありました。

アートセンターは、一度社会に出てから学び直すために入学する人も多く、当時からレベルが高いことで知られていました。

夏季短期留学プログラムに参加すれば、単位が取得できるということもあり、参加を決めました。

これが私にとって初めての海外旅行で、大きな刺激を受けた体験の一つとなりました。

アメリカのデザインの現場は、今振り返ってみてもかなり進んでいました。

日本との文化の違いから来る思想や考え方だけでなく、科学技術を応用した表現とか、西海岸の広大な土地の理を感じさせるキャンパスや街並みなどすべてが新鮮でした。

授業は、プロダクト、環境、パッケージなどのデザイン、グラフィック、CG(コンピューターグラフィック)、広告、フィルム、写真、イラスト、絵画など、多岐にわたっていました。

中でも強く興味を惹かれたのは、在校生が自らの作品をプレゼンして先生のフィードバックをもらうというクラスでした。

コンセプトメイキングからしっかり構築されていて説得力もあり、これが「本物の」デザインなんだ!と感動しました。

デザインするにあたって、コンセプトからしっかり計画するいうことを学んだのはこの時が初めてで、今でも私のベースになっています。

当時の、日本の広告業界のメインストリームは、とりあえず有名タレントや著名人を起用すればOKみたいな風潮で、広告表現は二の次でした。

今思えば、当時は日本の広告予算が潤沢だったのでしょう。

つまらない素材やネタを使っていても、コンセプト次第で広告効果を高めたり、面白い表現を創れるデザインの可能性にとてもワクワクしたのを覚えています。

もっと面白いことをやりたい!テクノロジーアートの世界へ

私の在籍していたGD科は3年になると、広告系とメディアアート系の大きく2つのコースを選択するシステムでした。

在校生のほとんどが広告業界を目指す人が多く、それ以外の人がメディアアートを専攻するという流れでした。

メディアアートは、その当時、テクノロジーアートと名称を変えたところで、これが情報デザインのハシリとなりました。

当時、インタラクティブアート(双方向性のメディア)と呼ばれていたものが、インターネットを介したメディアやアプリでサービスとして提供されるようになりました。

人の想いはアートとして世に出て、時間を経てビジネスになるということを感じています。

社会人デビュー〜卒業が唯一の就職のチャンス?

やりたいことがわからない

卒業が近づき、いよいよ本格的に進路を決める時期になりました。

アートという抽象的な世界に足を突っ込んでいた学生時代から、うって変わって就活という現実が目の前に迫ってきました。

デザインという仕事は、ほとんどの企業で専門職として扱われていました。

就職課の説明によると、デザイン科の卒業後のルートは大きく3つに分けられており、ざっくり次のようなものです。

  1. メーカー(宣伝部)=クライアント・発注者
  2. 広告代理店(クリエイティブ)=企画ディレクション
  3. デザイン事務所・制作会社=デザイン制作

これはそのまま仕事の流れを表しています。

話によると、この流れで川上から川下への転職は可能だが、逆はほぼ絶望的、実際の仕事量も上から下へ向かって増大すると言うことでした。

しかも、多くのデザイナーはキャリアを積んでアートディレクターを目指すのですが、それはほとんど叩き上げの世界です。

しかも、デザイナーは体力勝負という噂(事実です)もあり、私はすっかり戦闘意欲をなくし、そんな、用意された社会の現実を前に、戸惑いました。

世の中は好景気で活気があり、就職は苦労せずにできるけど、まだ転職という選択肢を想像できる時代ではありませんでした。

ちょうど、男女雇用機会均等法の制定から数年が経ち、女性の社会進出にも希望が持てる時代でした。

ここで決めた選択が人生を決めると考えただけで、気が重い。

でも、就職を考えるなら、卒業のタイミングしかない…と考え、日本の大企業の内定をもらいました。

ところが、よくよく話を聞くと、かなり自由である反面、残業はかなり多く、打ち合わせが深夜ということも多々あるという話を聞かされました。

意気消沈していたところ、興味本位で話を聞いたある外資系アパレルメーカーで、デザイナーとして本社のあるイタリアに出向しないかという話が持ち上がりました。

とりあえず海外に行ってみたい!という好奇心もあり、最終的にその会社に就職することに決めました。

イタリア生活とバブル崩壊

就職前に、3年を目処にイタリアで仕事ができるという話を聞かされていたのですが、実際の話はそこまでまとまっていなかったようです。

後から知ったのですが、その会社に就職したからと言って、イタリア行きが確約されていたわけではありませんでした。

イタリア本社で仕事をするためには、いくつかの課題をクリアする必要があったのです。

入社早々出された課題を休日返上で完成させて、イタリア本社にプレゼンに行き、めでたく採用に。

その後も課題や日常業務のほか、イタリア語を集中して学んだり、ビザや引越しなど生活に必要な準備をするなどして出発までの時を過ごしました。

イタリア北部にある本社オフィスは、広大な敷地に美しい建物が並ぶ場所で、オフィス環境もよく、社内にはモデル店舗なども設置されていました。

製造ラインはオートメーション化が早くから進んでおり、イタリアの田舎町にある近代的な施設に視察に来る外国人が多くいたのを覚えています。

(写真;イタリア本社や当時の写真)

企画部内のグラフィック部門に派遣された私が最初に手掛けたのは、Tシャツのグラフィックでした。

イタリア語で依頼内容の説明を受けて、絵を描く。

指摘されたら、絵を描き直す。

という繰り返し。

日常会話程度のイタリア語で理解した内容を、ビジュアルをつくって見せて確認をするような作業でした。

もらった指示やMacのショートカットキーなどのメモ書きが残されたノート.必死に覚えようと書き出したイタリア語の単語はデザイン用語ばかり…

メインの仕事は、子供向け商品のキャラクターを描くことでした。

絵を描くつもりでデザイナーになったわけではないと思いながらも、ロゴ、イラスト、キャラクターなど、とにかく求められているものを描き続けました。

短期間にかなり描いたので、思いのほか絵が上達したようで、この仕事がきっかけで、今でもイラストや絵の仕事をもらいます。

しばらく経った頃、日本の管理部のスタッフから私に電話が入りました。

開口一番日本はバブルがはじけて大変なことになっている」と言っているのですが、

バブル?

初めて聞く言葉でした。

何それ?

っていう感じで、話を聞いても詳しい様子がわかりません。

しかし、その後まもなく私は帰国を命ぜられることになりました。

イタリア本社の企画担当のスタッフから、このままイタリアに残って、フリーランスで仕事を請けてくれないか?と言う話ももらいました。

このまま、イラストを描く仕事をここで続けて、その先はどうすれば良いのだろう?

帰りたくないけど帰りたい。

まだネットがない時代、イタリアの片田舎に残って、私はどうしたいのだろう?

悩んだ末、私はそのまま日本に帰国することを選びました。

失業、そして放浪のはじまり

日本のデザインの現場にもMacがやってきた

帰国した時には、以前70人ほどいた企画部のスタッフが、2、3人ほどになっていました。

イタリア本社の提案するものを、日本の市場向けに調整する程度で、デザインと言えるほどの仕事は残っていませんでした。

しばらく経つと、バブル崩壊をリアルに感じるようになりました。

外資系はとにかくやることがスピーディーで、管理職は本社から派遣され、組織もどんどん変えていく。

このままでいるのは時間の無駄。

そう感じた私は、次のキャリアプランを考えるようになりました。

ちょうどその頃、日本のデザイン業界には、本格的にデジタル化の波が押し寄せていました。

デザイナーとして転職するには、「Macが使える人」というのが条件になっていたのです。

このまま、日本で転職するか、海外にもう一度出るか?

しかし、考える間も無く、組織の改変は進み、私にも都合退職の話が降りかかりました。

退職金をはたいてMacを購入/できることをかき集めて食いつなぐもやもやの時期

退職を決めた私は、退職金を資本に当時100万円近い金額をはたいて中古のMacを購入しました。

初めて購入したコンピューターMac IIci. 時代を感じますね!さすがに写真は見つかりませんでした…

Mac IIci

引用:週刊アスキー

私のデザインのスキルは、イタリアの現場で養われたもので、日本の現場のそれとはまったく違ったものでした。

当然、日本のレールに戻れるような状態ではありませんでしたが、レール以外の場所に仕事はほとんどありません。

そこで、いち早くMacを使えるようになるのが、転職への早道と考えたのです。

自分が何をやりたいとか関係なく、とにかく食いつなぐのが精一杯だったので、過去に描いたイラストやロゴをまとめてポートフォリオにして、エージェンシーに送ったり、Adobeの教則本を購入して、Macでイラレとフォトショップを独学したり…

そうこうしているうちに、イタリア語の通訳やイラストの仕事、Macの講座を教えてくれないかというような話をいただくようになりました。

やっぱりなんか違う…即行動→英国に留学

早々にMacとグラフィック系ソフトの独学が功を奏し、専門学校でソフトの使い方を教えたり、デジタルの制作スキルが必要なプロジェクトに関わったりと、なんとか食いつなぐことができました。

デザインのスキルを磨きたいと思う反面、イタリア語を話すことが楽しくて、通訳もやってみたいなって思ったこともありました。

でも、イタリア語の通訳になるには、英語が必須。

イタリア語の上達に反比例して、私の英語はグダグダになっていて、このまままだと、せっかくの語学もどんどん使えなってしまうという危機感もこみ上げていました。

語学力は、将来的に絶対必要!という確信と裏腹に、そもそも仕事をしながら勉強をするような根性のない私は、語学留学をしたいと考えるようになりました。

そう思ったら即実行です。

その翌年の年明け早々に私は日本を経って、初の英国の地を踏むことになりました。

日本人が少ない場所を求めてかなり田舎の語学学校を選んだのですが、4月になると多くの日本人留学生がクラスに入ってきました。

その頃、日本は就職氷河期の真っ只中。

就職できずに大学に籍を置いて留学したり、大学院に席を置いて夏休みに留学するという人が大勢留学をしていたのです。

私は、ホームステイをしていたので、なるべくホストファミリーと会話したり、一人で出かけたりして、なるべく英語を使うように心がけました。

ところが、ポンドがどんどん高くなってしまい、貯金があっという間に底をついてしまいました。

日常会話では、なんとか話しかけられてもおどおどしないくらい話せるようになったけど、後ろ髪を引かれる思いで、半年後に日本に帰国することになりました。

再就職と失望で性根尽きる

帰国後友人の勧めで商品企画の仕事に就く

今ひとつすっきりしない気持ちで私が帰国したのは、ものすごい湿度の高い7月の東京でした。

すっかり忘れていたけど日本の夏は暑い。

イギリスとの気候の落差に、ぐったりしていた私に、友人から連絡がありました。

彼女の勤めている会社で商品企画の求人があるから、受けてみないかという話でした。

私はなんとなく、ゆるくフリーランスでも生活できるかと、あいかわらず甘い考えでいたのですが、そのだらけきった心を見抜かれたのか、彼女は熱心に転職を勧めてきました。

面接だけでも受けたら?

彼女の勧めに従って、その会社に応募することにしました。

結局、そのまま内定をいただき、転職することになりました。

仕事内容は、生活雑貨ブランドの商品企画でした。

商品カテゴリごとに担当が振り分けられ、OEM商品や買い付けなど様々な形態でオリジナル商品の企画から仕入れ、店頭に商品を送り届けるまでが仕事でした。

デザイナーと組んで、デザイン以外を私が担当していました。

百貨店の一等地に店舗を構えていて、雑誌の特集で同僚のバイヤーが誌面に掲載されるなど、そのブランド自体、とても人気があり、売り上げも上々でした。

扱っている商材の単価はピンからキリまで、いくら売っても利益が少ないものからそうでないものまであり、商品点数もかなりの数で、それに伴い仕事量も倍増でした。

予算を組んだり、数字を見るような仕事に慣れていなかった私は、この仕事をこなすのに時間がかかり、毎日終電間際まで仕事をしていました。

それでも終わらなくて、こっそり家にパソコンを持ち帰って朝まで仕事をしていました。

商品の仕込みが間に合わないと、お店の棚に商品がなくなってしまう…というプレッシャーで、納期に追われる日々。

プライベートを確保する余裕もなく、当然の結果として、身体を壊して入院しました。

多忙でメンタル崩壊&身体を壊す

一切のやる気をなくし、診断こそされませんでいたが、今振り返れば、あの状態を「鬱」というのではないかと思います。

睡眠時間がそもそも足りていなかったので、肉体的にもダメージに襲われ、しばらく入院することになりました。

半年ほど休職し、会社に戻るとさっそく異動の辞令が出されました。

商品企画の仕事というのは、そのくらいの忙しさは当たり前、それで潰れるようならこの仕事は無理だと、上司に言い渡されました。

今だったら、ブラック企業と一喝されるのかもしれません。

しかし、当時の常識では、耐えられない私が社会人として失格という烙印を押されたのです。

異動先に決まった輸入貿易の仕事は、英語が使えるということ以外には、まったく興味がもてない仕事でした。

一回休み→大学の研究室に避難

数ヶ月間働いた後、知人の紹介であらたな職場に転職をすることに決めました。

精神的にかなり疲れているという実感があったので、少しゆっくり過ごしたいと思っていたときに紹介されたのは、ある美術大学(当時は短大)の研究室でした。

週4日間助手として勤務し、1年ごとの契約で最大2年間、自宅から車で通勤できることもあって、良い気晴らしにもなりました。

しかし、教育の現場にありがちなのんびりした環境に危機を感じて、1年後にふたたび求職活動を開始することにしました。

ありがたいことに、そこで知り合った講師の方から新しい事業を始めるから手伝わないかと、声をかけていただき、お世話になることにしました。

ITベンチャーへ〜仕事にかける冷静と情熱のあいだは?

アートはいつかビジネスになる

2001年4月、私がかなりお気楽モードで働き始めたのは、いわゆるITベンチャーの会社でした。

声をかけてくれた方が社長を勤め、私を含め社員2人にプログラマー、コンサルタント…と、少人数ながら個性的で優秀なメンバーの集まりでした。

その会社は、Web制作などを請け負うことで当面の開発資金を工面しながら、とある新規プロジェクトを立ち上げようとしていました。

その企画は、個人の関心事を中心として、人・もの・ことをオンラインでつながる場を提供するというもの。

当時、居酒屋やクラブ、カフェのようなリアルな場所が、小さなコミュニティをつくる役割を担っていました。

そのような場所は、メディアとしての機能を果たしていて、その機能をオンライン上で再現しようという、

いわゆる、今、SNSと呼ばれているサービスの前身です。

まだ、オンライン上にmixiもfacebookもなかった頃、私が学生時代に心惹かれたテクノロジーアートの世界が、IT技術を使って実現しようとしていました。

アートはいつかビジネスになる。

それを、こんなにも間近で感じられる機会が来るなんて…

7月にオープンコミュニティとしてスタートしたそのプロジェクトは、IT業界の先駆者たちの中でちょっとした話題にもなり、業界紙やテレビなどマスメディアでも取り上げられました。

パソコン通信の時代から、ITに関心を持つマニアックな層を中心にゆるく人がフラットにつながる文化を目指してスタートし、みるみるユーザー数が増加していきました。

ユーザーも巻き込んで、マニアックで情熱に溢れたファンたちが、昼夜関係なくネットでつながり合う毎日。

スタッフの立場の私も、次第に巻き込まれていきました。

当時は、インターネット上のサービスは無料で使うのが当たり前で、課金をするのは、まだ敷居が高いというのが現実でした。

マネタイズするためには、どうするかを毎晩のように話し合っていました。

しかし、サイトの話題性に反して、ビジネス的な成功には、まだ時代がついてきていなかったようです。

結局、マネタイズが思うようにいかないことで、それ以上のリソースを投入できず、プロジェクトを残したまま、翌年の秋に解散しました。

それでも、このコミュニティサイトは、その後15年間運用を続けました。

2016年にその役割を終えて、幕を閉じることとなりました。

ふたたび失業。好きなことじゃないと続かない?初のコンサルを受ける

事業解散後に再び職を探すことになった私の前には、ITの未来が広がっていました。

新技術がどんどん現実の世界に投入されると、既存メディアが刷新されます。

新しいメディアが生まれれば、それに合わせた新しいデザインの領域が生まれます。

Webメディアでの経験があったことで、様々な会社からオファーをいただきましたが、それとは裏腹に、私の気分はどんよりとしていました。

コミュニティサイトの運営をしていた時、周囲が夢に向かって突進していくような空気感の中で、私が先に帰宅して翌朝会社に行くと、知らない間に話が進んでいることが多かったのです。

やっぱり、好きじゃないと、こういう仕事はできない…と、無意識に疎外感のようなものがあり、自分には、情熱がない…という気持ちに駆り立てられていました。

昼も夜も、そして、仕事とプライベートも、すべてがごっちゃになった世界で、私は、自分の生き方について、常に考えるようになっていました。

仕事に、どこまで情熱を感じなくてはいけないのか?

好きなことを仕事にしなければダメなのか?

できるだけ楽しめることをしよう!と、いうくらいの感覚ではいけないのか?

答えを求めて、本を読みあさったり、自己分析をしてみたり、ノートにいろいろ書き出してみたり…と、思いつくことを片っ端からやりながら、とりあえず自分ができることで生計を立てていました。

デザインをやってるとかイラストを描いていると、「好きなことができて羨ましい」とか、「才能があっていいね」などと言われますが、正直それほどの思い入れはありませんでした。

もちろん、仕事は好きでしたが、やっているうちに好きになったのであって、好きだから始めたと言うわけではありません。

その頃は、今までとはまったく違う仕事をしてみるのも良いかもしれないとも考えていました。

何に対しても「どうしてもこれがやりたい!」と感じることができなくなっていたのかもしれません。

偶然、就業支援のコンサルを受ける機会があり、月に1回通うことになりました。

過去、自分がやってきた仕事を棚卸しして、職業の傾向や得意なことを分析し客観的に把握してから再構築、次に活かすことを目的とするようなワークを行うのです。

そろそろ本格的に仕事を始めないといけない。

猶予期限がせまったある日、以前、登録していたクリエイティブ専門の派遣会社から、私の経歴にぴったりの仕事があるというオファーをいただきました。

どうせデザインをやるなら興味のある業界で

話をいただいたのは、国内の大手建材メーカーのデザインの部署でした。

どちらかというと、自由な環境で働きたかった私は、そもそも日本の大企業で働くこと自体に、あまり関心がありませんでした。

しかし、同じような仕事の経験があり、専門性もあっているし、報酬もいい…ということもあったこともあり、とりあえずポートフォリオを持って、担当者に会うことにしました。

デザインの部署は、商品のデザインを行うのがメインでしたが、派生して、媒体向けのデザイン相談にも乗っていました。

そこは、関連会社やグループ会社、各支社などが独自に行うプロモーション活動など、ブランドイメージの管理も含めて、デザインの駆け込み寺的な部署になっていました。

Webサイト構築のタイミングにあわせて、会社全体のブランディングを本格的に見直したいとの考えがあったようで、幅広い知見と制作スキルがある人材を探していたようでした。

私の経験が、デザイン専門ではなかったことが、このような仕事と相性が良かったようです。

デザインの世界に入るきっかけが、インテリアデザインだったので関心のある分野でもありました。

アパレルや雑貨のブランドの仕事は、いずれもすでにブランド力が備わっていたため、自分自身の実力の判断ができず、いつまで経っても、自分の能力に自信が持てないという感覚が残っていました。

そのため、あまり知られていないブランドの仕事の方が、結果が見えやすいかな?という目論見もありました。

何者でもないかもしれない自分を直視する不安もあったけど、とにかく一歩踏み出すことにしました。

その職場は、良くも悪くも日本らしい会社でした。

オフィスは静かな平和な雰囲気、社員は比較的親切で穏やかだし、会議でも否定的な意見など出ることもありません。

休憩時間はお茶を飲みながらみんなで和やかにお喋りを楽しむといった環境でした。

女性のみ制服着用ってのが私にとっては謎でしたが、特に大きな反対もなかったようです。

職場では、ほとんど自己主張することなく物静かな人たちも、話してみれば、個性的で面白いということもあって、それなりに居心地の確保された環境でした。

日中は、ほとんど相談事を受けて、実作業は夕方以降に行うというペースがだんだん固定化されていきました。

相談事とは別にメインで行っていた仕事は、Webサイトのリニューアルでした。

毎週、定例会をやってはいましたが、前に進まない状態で、外部の企画会社などにお願いするにも予算が無いし、依頼できるほど話もまとまっていない。

そこで、コンセプトを勝手に想定して、ビジュアルの完成イメージをデザインしてプレゼンしたところ、いきなりプロジェクトが動き出しました。

デザインって、ビジネスの世界で語られる「見える化」「可視化」みたいなものなので、情報共有に力を発揮します。

日常、ほとんど意識されていないかもしれませんが、世の中の物事はすべてデザインされている、つまり、最終的に誰かがデザインして世に送り出しているということです。

デザインのスキルがあると、企画書でプレゼンするより、より現物に近いプレゼンができるので早くて確実です。

そして、次から次へと相談が降ってくるようになり、数年後に私は独立することとなりました。

結果は出たのに評価されない?

独立と言っても、今までの仕事の一部を契約で受けることになった私が、当時メインで担当していたのは、Webサイトのリニューアルの案件でした。

Web制作会社に発注する上で、クライアント側のビジュアルの取りまとめをするような役割で、本来は、広報などが担当する領域の仕事でした。

携わったサイトのリニューアルでは、雑誌「日経パソコン」が毎年行っていた企業Webサイトランキングでトップ10位以内の高評価をいただき、社内でも反響がありました。

それをきっかけにホームページに予算がつくことになったのですが、喜びも束の間、プロジェクトごと新たな部署に移管され、以降ホームページの仕事はほとんどなくなりました。

会社という組織に勤めているわけではなくても、なんとなく自分の仕事をコントロールできない状況に、やるせない思いが湧いてきました。

淡々と求められる仕事をこなしていけば良いのだろうか?

自分のキャリアやスキルはどこまで磨けばいいのか?

本当にそれらは役に立つのか?

など、再び悶々とした日々が始まりました。

身につけたスキルも時代の流れには追いつけない

この頃は、グラフィック系のアプリもかなり使い勝手が良くなり、それほど複雑でなく中小規模の仕事なら、ディレクションから制作までを一人でできるようになっていました。

基礎があるからといって、新しいスキルをまったく知らないで良いというわけではありませんが、そのスキルを身につければいいっててわけでもありません。

常に学び続ける必要性を感じてはいたものの何から始めれば良いのかしら?

そんなことを考えていた頃、商品コンセプトの変更に伴って書体のみを変更するという「商品ロゴのマイナーチェンジ」のプロジェクトを請けたことがきっかけとなって、あることに関心を持ちます。

そのプロジェクトはかなり地味な仕事で、モダンテイストで打ち出していた商品を、もっと幅広い層にアプローチするためレンジを拡げるという主旨でした。

それに伴って、時間軸に幅を持たせるようにデザインを見直し、目的に合う書体をセレクトすることにしました。

書体が使われていた背景や歴史、そして、同じテイストの書体を使っているブランドとその意図やなぜその書体を選んだか根拠を丁寧にプレゼンすると、それが意外にも好評でした。

担当者によると、ロゴがちょっとくらい変わってもお客様にとってはどうでもいいこと。

だけど、ロゴを変えた理由や背景、つまりストーリーを語ることができると、「商品に対する想いをお客様に伝える」ことができる。

重要なことは、「お客様とのコミュニケーションの材料」というコメントをいただきました。

表現の技術は、どんどん新しいものが出てくるけど、それを伝えたり、使ったりするのはあくまでも人間で、人の心理は昔からほとんど変わっていないということにあらためて気づかされました。

文化や歴史という、表現の背景の文脈を知ってデザインに応用すると、デザインも無限に広がるし、会話のきっかけにもなります。

デザインを構成する要素について、文化的背景という視点から、もっと体系的に学びたいと考えるようになりました。

そして、いろいろ探して見つかったのが「紋章学」という学問でした。

しかし、日本で紋章学を教えている学校はありません。

日本語の文献もあまりなく、勉強するには英国に留学するという方法が良さそうと、迷っていたときにか、日本で紋章学を教えている学校を見つけました。

もっと勉強しよう!カリグラフィーに出合う

先入観からの遠回り

その学校は、東京にあるカリグラフィーの学校でした。

さっそく、学校のパンフレットを取り寄せて見てみると、カリグラフィーで書ける書体のクラスがいくつもあり、紋章学以外にも書体の歴史や細密画などの写本装飾のクラスまでが写真とともに掲載されていました。

当時、私の持っていたカリグラフィーのイメージは、「Thank you」とか、「Happy Birthday」みたいな言葉をカードに書いて楽しむ、ちょっとした時間つぶしの趣味みたいなものだと思い込んでいました。

以前にも、「カリグラフィーには興味ないの?」と尋ねられたこともありましたが、私には無関係とざっくり切り捨てていました。

大学のタイポグラフィーの授業で少しかじったけど、それほど興味も湧かないまま…

ところが、家に届いたパンフレットには、私の想像とはまったく異なる世界が拡がっていました。

家に届いたパンフレットを開くと、見たこともない文字が並ぶ.カリグラフィーって一体いくつくらい書体があるんだろう?

あー。ここに通ってみたい…でも、そのためには、時間のやりくりが必要。

なかなか調整できないまま、1年ほど経過した後、学校から無料体験レッスンのお知らせが届きました。

平日に1日時間を確保して、体験講座に参加することにしました。

1日で5種類の講座を体験できるということだったので、フランス語を除く4講座を受講しました。

カリグラフィー入門、イルミネーション入門、紋章学入門、書の歴史…

その結果、どれも私の予想をはるかに超えた内容で面白い「知の探究」の世界に、すっかり魅了されてしまいました。

そして、私はカリグラフィーを通して西洋文化のディープな世界にハマっていくことになりました。

安定と引き換えの苦痛

その頃は、仕事に少し余裕もできてきて、カリグラフィーを学び始めるには絶好の環境でした。

カリグラフィーは、日本語にすると西洋書道と呼ばれます。

「道」=修行の世界、毎日毎日書き続けること以外に上達の道はありません。

始めた頃は、肩が凝る、目が疲れる、インクが出ない、真っ直ぐの線が書けない…と、苦行でした。

ずっとデザインをやっているのに、仕上がった作品は、全然かっこ良くならない(泣)

かなり落ち込むと同時に、綺麗な文字を書きたい一心で、気がつけば休みの日や空いた時間は、ほとんど家に引きこもって、カリグラフィーの練習をするようになりました。

もちろん、紋章学や書の歴史などを学ぶことで、現代のデザインに活かしたり、デザインを読み解く知識を得ることができました。

実際に手を使って書くと、頭で考えてもしっくりこないようなことが理解できるのも、とてもわくわくします。

少しづつ上達して、数年後には展覧会に出展するまでになりました。

初めて出展したカリグラフィー作品(2013年11月 日本スペイン交流400周年記念 慶長遣欧使節団来西400年の歴史・カリグラフィー作品展/東京・麹町)

一方、もともと仕事上で何か役立つのではないかと思って始めたはずのカリグラフィーでしたが、当時、私が関わっていたプロジェクトには、それを活かせる場がほとんど無くなっていました。

この知識を活かせる領域の仕事をしたいと考えるようになりましたが、学ぶための時間ももっと欲しいと悩みつつ、私は現状維持を選びました。

その後ほどなくして、取引先の大きな組織改変があり、今後の仕事の方針を大きく変えなくてはならない状況となりました。

仕事・趣味・勉強…すべて両立できる?

クライアントワーク中心の仕事では、たとえ独立していたとしても、自分で仕事をコントロールすることはできません。

わかっていたことでしたが、次から次へと仕事が入ってくるというのは、楽でもあります。

しかし、忙しくなると、ついつい流されて、仕事をやった気になってしまうような一面もあります。

これは、会社に勤めているのと、さほど変わらないことです。

私が社員になることを拒んだのは、自分は流されやすいところがあるとわかっていたから。

そして、やらざるを得ない環境に自分を追い込まないと、自ら動けないぐうたらな性分なのも、よく知っていたからです。

大きな取引が終了した後、少し空いた時間を使ってカリグラフィーに集中することにしました。

カリグラフィーの実力は、国際活動に出展できるくらいのレベルにはなりましたが、まだ短時間で作品が作れないということに苛立ちを感じていました。

とにかく1年間は、腰を据えてカリグラフィーに集中しようと決めて、将来についても計画しました。

この先も、フリーランスを続けるのか?それとも、会社勤めをする方が良いのか?

独力でやっていくなら、営業活動や集客が必要と考えて、テレアポ、接客、飛び込み営業のバイトをしたり、インターネットでの発信も必須と考え、Web関連の勉強をするなど、色々試しました。

そんなことをするうちに、やっぱり勤めたほうがいいのかな…などと、弱気になったりもしました。

でも、最初に仕事を決めた時のことを思い返すと、「女性でも一生稼いで生きられるようになる」ためには、就職という選択肢は考えられませんでした。

これからの時代の働き方を模索

時間と場所に縛られない生き方

仕事の時間も自分の時間。

これも、昔からずっと思っていたことです。

ただ、仕事を決めた時と今では、社会の環境が変わりすぎていて、時代に合わせて、考え方や実際の行動を変える必要があると感じました。

独力で生きていける力をつけながら、どんな生き方をしたいかといえば、やっぱり自分の時間を使うなら楽しんで過ごしたいということ。

仕事=自分の時間=できるだけ楽しみたい

これを求め続け、考え方をアップデートして行動し続けた結果が今です。

私が社会に出てから、男女雇用均等法の施行、バブル崩壊、デジタル化の波、働き方改革など…さまざまなことがありました。

特に女性の生き方は大きく変化したと思います。

以前は、自分が独立した生き方をするなんて無理だと思っていたけれど、今は、工夫一つで自由な働き方ができる時代になりました。

せっかくのチャンスがあるなら、やってみないと本当にもったいないと思いませんか?

さて、独立して生きていくと決めた私は、自分の働き方を見直しました。

自分の力でこの先もずっと稼いでいくためには、インターネット集客が必要と思って、オンラインのビジネスとライティングを学びました。

2018年から、SEOとWebライティングを学びながら、情報メディアを運営し、個人の小さなサイトでも、集客できることも経験しました。

ライティングは、企業向けパンフレットや情報誌など紙媒体でも経験があり、現在、オウンドメディア以外のWebサイトでも執筆を行っています。

長くなりましたが、もう一度、冒頭の私の半生のダイジェストをご覧ください。

  • 女性でも一生稼げる仕事をしようと考えインテリアデザイナーを目指す
  • 苦労して入った美大だけどなんか違う…気がつけば卒業
  • 環境を変えたくてイタリアに渡るがバブル崩壊で日本に逆戻り
  • 日本のデザインの現場にデジタル化の波
  • できることを駆使してサバイバル生活&自分をバージョンアップ
  • 日本の企業に就職するもプライベートの確保ができない!働きすぎで壊れる
  • 心機一転、最先端を求めてITベンチャーへ
  • うまくいかないからもういいや!手放したら仕事が巡ってきて…独立しちゃった
  • カリグラフィーに出合って「自分だけの強み」に気づく
  • オンラインで発信してみてどんな風に生きてもそれは自分らしい生き方ってことに気づく

結構、紆余曲折、思いのままに生きてきました。

あらためてこれを見て、「最終的になんとなかるものなんだな」って思いませんか?

今、仕事が思うように行かないとか、この先も会社で勤め続けることに不安を感じている人が多いと思います。

そんな時、少しだけ視点を変えて、自分をアップデートしてみませんか?

できることからコツコツと続けていけば、なんとかなるものです。

私よりも少し先を歩いている人、まだまだ振り返るほども歩いてないという人、いろんな人がいるかと思いますが、この記事が、これからの働き方や人生のちょっとした参考になれば嬉しいです。

このサイトでは、私と同じように、自分の力で稼いで生きていきたいと考えている方、そして、自分らしい発信をしたいと考えている方の参考となるような情報を発信しています。

デザインとライティングのスキルの組み合わせは、インターネットでビジネスを行う際の強力な武器になります。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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どのようにデザインをするか、
発想法から目的に沿ってうまくまとめる
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